7戦全勝(3KO)のプロボクサーだった、リングネーム黄麗日出(協栄ジム)さんは、Jライト級東日本新人王に輝いたが、西日本新人王と対戦する全日本新人王選には出場できなかった。
疲労性の椎間板ヘルニアを患い、ボクサー生命を絶たれたのでした。

東日本新人王決勝戦



日本名は、黄日出(こう-ひで・40歳)。1969年11月生まれ。本名は、ファン・イルチュル。
東京朝鮮高級学校2年生と3年生の時、朝鮮学校中央体育大会に連続準優勝し、朝鮮大学校1年生と2年生の時も、関東大学トーナメント選フェザー級で、優勝しています。
写真は、北朝鮮大学校で。左は金田森男(帝拳)さんの息子さん。

「試合で初めて涙を流したのは、大学1年の優勝した時でした。今でも一番心に残っている試合です」と語る黄日出さん。
朝鮮大学校の5年後輩に、世界チャンピオンの徳山昌守さんがいますが、そのチャンピオンが、黄日出さんのことを、強くて伝説の先輩だったと話しています。
大学2年生のころ

高校・大学時代は、日本人でないことからインターハイ、国体、そして世界選手権、オリンピックといった世界大会の選考会に出場できなかったが、その悔しさをバネにして、プロボクサーで世界チャンピオンを目指しました。
プロでも、チャンピオン以外はファイトマネーだけでは生活できないため、昼間は勤めています。
黄日出さんも、仕事はカラオケボックスの店員でした。
勤務時間は、朝8時30分から11時まで、午後からジムでのトレーニングをして、夜は21時から午前2時までの生活を続けたために、疲労性の椎間板ヘルニアを患い入院することになり、全日本新人王決勝戦は棄権しました。

黄日出さんの、Jライト級のウェイトは58.9キロブラムです。普通の食生活をしていたら、すぐに10キロオーバーの70キログラムになってしまいますが、それを日頃から65キログラムに抑えた食生活をしていたので、肉体の疲労がとれなくて腰痛になったのでした。
ボクサーの大まかな減量の仕方ですが、試合の2週間位前から減量に入って、1回の練習で2キログラム落とし、1.5キログラムの水分と食事を取ると、500グラムの減量です。
1日500グラムの減量を2週間続けると、7キログラムの減量となりますが、これはあくまで概算です。
試合前日に2キロも汗をかく練習をしていたら、疲労した体のままでリングに上がるようになるので、疲れをとりながら、汗をかかない分、食事制限をして行くことになります。
1キロの減量トレーニングで、500グラムの水分と食事を取ると、500グラムの減量、500グラムの減量トレーニングで、250グラムの水分と食事を取ると、250グラムの減量になります。
試合前日の計量時は、減量のために体にオモリがついたようになりますが、計量後の水分補給で、徐々に肉体が生き返るそうです。
その後も腰痛の回復が悪く、歩行困難なほどになり、プロボクサーを辞めることになりました。
引退してから12年後、焼肉店を経営しながら、近所のジムのトレーナーしていたとき、気の弱い長男に、強かった父の姿を見せたいと考えました。ただ1回だけのカムバックだからと奥さんの許しを得て、ジムの会長に頼み込んで、リングにカムバックしたのです。


結果は、1ラウンドに右クロスでダウンを奪い、1分26秒にKO勝ち。

本格的にカムバックのトレーニングを開始した時に、引退して12年の時間を、体力の衰えで実感し、これではいけないと、仕事の暇をみつけてはトレーニングするようにしました。
そして、2007年9月16日、黄さんは、33歳以上を対象とするアマチュアボクシングのスパーリング大会、「ザ・おやじファイト」で初代ライト級チャンプになり、念願のベルトを巻いたのでした。
チャンピオンベルトを巻いた黄日出さん。右は、フェザー級チャンピオンの
高橋保久さん。



現在、東京都墨田区錦糸町の丸井デパート横を入ったところで焼肉店「フランス人」を経営して、年中無休で頑張っています。

黄日出さん、お世話になりました。ありがとうございました。
posted by みなさぶろう at 22:00
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元ボクサー
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